平和安全法案の整備を「歴史認識」問題と絡めるな
渡邉 昭夫 (一般財団法人 平和・安全保障研究所 副会長)
安倍晋三率いる日本政府が目下直面する2大懸案は平和安全法案の整備と、いわゆる「歴史認識」とである。後者は戦後70年を期して安倍首相が何をどう言ううかが人々の関心の的になっていることを指す。私の意見では、戦後70年だからといって、特に8月15日に、日本の総理大臣が何か声明をしなくてはならない格別の理由などない。中でも、アジア太平洋戦争が日本による「侵略」であったか否かといった不毛な「論争」に関わるような発言は一切しないのが賢明である。良かれ悪しかれ、大きな影響を残した戦争について改めて思いを致そうではないかと静かに語りかけるだけで充分である。この問題は後でまた論じることにして、第1の問題、すなわち、平和安全法案の整備について以下のことを言っておきたい。
要は、現在の、また近い将来の日本が想定しうる限りの事態に際して有効かつ迅速に行動できるように、国内法を整えておくのが、その狙いである。専門家は、「重要影響事態」とか「国家存立危機事態」とか硬い言葉でそのような事態を表現しているが、普通の人々は余り、そうした専門用語に頭を使う必要はない。日々のニュースを見聞きして、その背後にある国際情勢が、こうした法制の成立を目指す政治家や、世論指導者の言説が納得できるか否かの判断力を鍛えるのが、一般市民の心がけるべきことである。言い換えれば、現代の国際情勢についての認識が平和安全法案の整備の根底にある。そのような客観的情勢と政治指導者の主観的認識とがずれているのか否かの判断が主権者たる国民に求められている。
もし、客観的情勢が現在までの日本の国内法(憲法を含む)と合致しないのであれば、後者を改めるのが、理性の命ずるところであろう。これが、平和安全法案の整備とは何かという問題に対する私の答えである。
憲法審査会での何人かの憲法学者の発言は、私には理解不能の怪異であるが、いわば、コップの中の嵐のようなもので、やがて収まるべきところに収まるであろう。それより私の心配は、平和安全法案の整備の作業と時を同じくして進んでいるかに見える、「歴史認識」問題である。先に述べたように、安倍首相は来る8月15日に何らこの問題について格別の声明をする必要はないというのが、私の意見である。
何を言っても揚げ足を取られるだけと言っても良い状況だという判断があるからである。これまでの歴代内閣の立場と何ら変わることはないと様々な機会に安倍首相が述べてきたことで充分である。いや、それ以上に、最近数ヶ月の間に、ジャカルタで、またワシントンで、安倍首相が語ってきたという実績がある。オバマ大統領との会談後の記者会見や、上下両院での演説は、好意的に受け取られた反面、アメリカのかなりの数(当初187名だったが、その後450名にまで増えた)の学者が署名した公開書簡が、安倍政権下の日本の今後について懸念を表すという事実もあったと伝えられる。われわれは、これをどう理解すべきか。これはという人物の名があまりないことからみれば、素人でも食いつき易い話題であって、在米韓国人や中国系アメリカ人のロビー活動が一定の効果を果たしているのかも知れない。また、ジョン・ダワーの名がその中に見えているのを見ると、ジョージ・パッカードが『ライシャワーの昭和史』(2009年、講談社)で詳しく述べているような、ライシャワーの影響下に居る学者と、彼を激烈に批判したダワー(元来は彼もライシャワーの弟子であったが)に代表される人々との間の対立というアメリカの知識界の事情が反映しているのかも知れない。いずれにせよ、日本の各界の指導的人物が、歴史について語るとき、十分な目配りが必要である。性質を異にする二つの問題をリンクさせる手法をリンケージポリティックスと呼ぶが、問題解決を容易にするためにも、逆に、問題を複雑にして混乱を持ち込むためにも、この手法は使われる。最悪のシナリオは、元来理性的な平和安全法案の整備という問題が、「歴史」を巡る不必要な言葉の応酬によって妙な色付けをされてしまうことである。
RIPS' Eye No.195
執筆者略歴
わたなべ・あきお 1932年生。オーストラリア国立大学修了(Ph.D) 。東京大学教授、青山学院大学教授を経て、当研究副会長。専門は国際関係論・日本外交論。